2016年6月3日金曜日

碓氷線の光と影

 6月3日はロクサン、となれば碓氷峠越えに活躍したEF63を思い出す。 昭和38年、新線開通による粘着運転開始以降、所要時間、輸送量ともアプト式時代に比べ大幅な改善がなされた碓氷線。その立役者がEF63で、補助機関車を必要とした横川~軽井沢間の旅の記憶は、今は良き思い出になっている。だが難所として知られているこの区間は、技術面に止まらず採算的でも「難所」でもあった。その大きな理由は、峠を越えるため機関区をはじめとする急勾配路線維持に必要な経費の存在で、「昭和40年代初頭」にはこの区間での赤字が40億円超に及ぶことが重大な問題だった。このような大赤字「区間」が存続できたのは、路線が首都圏と日本海側を結ぶ「国鉄」信越本線であったからこそで「民間会社」では維持不可能に近い「交通インフラ」だった。
 もちろん採算改善策が講じられたのは言うまでもなく、協調運転方式による輸送力向上、制約が多かった貨物列車を迂回路線の上越線への移行もその一環だった。そして決定的な対策としては、補助機関車を必要としない路線付替え。これは北陸新幹線長野開業によって実現することになる。 これによって幹線としての碓氷線の役目は終わり、宿命的な赤字と共に消えていった。 
 時は流れ、新幹線開業後開設された碓氷鉄道文化むらから温泉施設「とうげの湯」まで廃線を利用したトロッコ列車が運行されるようになった中、今後「熊ノ平」、更には「軽井沢」まで延伸されるプランが持ち上がっている。観光鉄道としてではあるが、再び碓氷峠に光があたりそうだ。   
「機関区の町」横川。
(カメラ CANON  NewF-1、フィルム コダクローム PKR)


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