気がつけば死語になった「二段ハネ」。その先駆車がオハネ25形で定員は34名とナハネ20の54名、オハネ14、24の48名に比べると居住スペースの改善に重点が置かれていたことがわかる。今回の作品は「富士」「はやぶさ」「出雲」が「二段ハネ」化されて間もない昭和51年頃のもので、当時は新幹線博多開業を境に寝台列車の客層がビジネス中心から変わり始めた時期。
ビジネスユースの移行に合わせて、九州行特急の競争力が下降線を辿り始めた頃のテコ入れとはいえ、当時は「ブルトレブーム」真っ只中、後の新幹線の高速化によって寝台列車が廃止になるとは想像できないことだった。#ブルトレ少年
車体の反射が眩しい「富士」、当時は西鹿児島から24時間以上かけて運行されていた。 |
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